萬松寺(ばんしょうじ)【愛知】

萬松寺(ばんしょうじ)

正式名/亀岳林 萬松寺
創建年/天文9年(1540年)
山号 /亀岳林(きがくりん)
宗派 /曹洞宗
本尊 /十一面観世音菩薩
ご利益/厄除け、身体健全、無病息災など




【本尊】
十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)
仏教の信仰対象である菩薩の一尊。
観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つであり、六観音の一つでもある。
本体の顔以外に頭上に11の顔を持つ菩薩である。
大光普照(だいこうふしょう)観音とも呼ばれ、頭上の11面のうち、前後左右の10面は菩薩修行の階位である十地を表し、最上部の仏面は仏果を表すとされるが、これは衆生の十一品類の無明煩悩を断ち、仏果を開かしめる功徳を表すとされる。
「救わで止まんじ」の誓願を持つがゆえに、大悲闡提(だいひせんだい・)とも呼ばれる。
六観音の役割では、阿修羅道の衆生を摂化するという。

※地蔵菩薩や十一面観音のように、「一切のかよわき命総てを救うまではこの身、菩薩界に戻らじ」という誓願を立て、人間界へ下りた一部の菩薩について、「一斉衆生を救うため、自ら成仏を取り止めてあえて闡提の道を取った仏」として、一般の闡提と区別して大慈大悲闡提(だいじだいひせんだい)と呼称する。


【由来】
天文9年(1540年)、織田家の菩提寺として織田信秀が開基。
信秀の叔父にあたる雲興寺八世・大雲永瑞(だいうんえいずい)和尚を開山に迎え、那古野城の南側に建立された。
当時は現在の中区錦と丸の内2丁目・3丁目にまたがる広大な寺領を持っていたが、慶長15年(1610年)、名古屋城を築く際に小林邑(現在の大須3丁目)に移建した。


【歴史】
慶長15年の移転後も尾張徳川家朱印寺として篤く信仰され、「故亜相源敬公大夫人霊廟」(徳川義直室高原院の廟)が置かれるなどしていたが、幕末頃から徐々に衰退。
大正元年(1912年)に37世・大円覚典和尚が寺領の山林の大部分を開放する事を決断し、開拓された町は現在の大須3丁目となって、萬松寺は再び賑わいを取り戻す事となった。
1945年(昭和20年)3月12日の名古屋大空襲で大須も焦土と化したが、平成六年四月に本堂が再建された。


【特徴】
曹洞宗、大本山総持寺の末寺。
開山は信秀公の伯父の大雲永瑞大和尚。
正式の寺号は亀嶽林萬松寺。

信秀の葬儀の際に信長が位牌に抹香を投げつけた事件は、大須に移る前の萬松寺が舞台である。
徳川家康は6歳で証人(人質)として今川義元の元に送られる途中で信秀に引き渡され、この寺で9歳まで過ごしたと伝わる。
明治年間、シャム国から日本に分骨された仏舎利が覚王山日泰寺(かくおうざんにったいじ)に運ばれた際には、萬松寺から行列が出発した。


【諸堂】
・身代わり不動明王
不動明王 (ふどうみょうおう)
密教の根本尊である大日如来(だいにちにょらい)の化身、あるいはその内証(内心の決意)を表現したものであると見なされている。

1570年(元亀1),信長は越前の朝倉氏を攻めた帰り道,琵琶湖付近で鉄砲でねらい撃ちされた際、弾は信長が懐中に入れていた干し餅(兵糧)に当たり難をまぬがれた。この餅は,信長が万松寺の和尚からもらい受けたものだったので,後にこの話を聞いた加藤清正が「身代わり不動」と命名したとされている。


・白雪稲荷
白雪枳尼真天(はくせつだきにしんてん)
別名御小女郎稲荷(おこじょろういなり)。創建された萬松寺の地に千年も前から住んでいた白狐が白雪様の狐族となってまつられたのが起源といわれる。伝説によれば、萬松寺が一時衰微したとき、このお稲荷さまが御小女郎に化身し、お金を工面し寺の窮状を救ったといわれる。



■レポ
下町風情の残る大須の繁華街の中にあるお寺。
すぐ近くにある大須観音に比べると参拝客はかなり少ないように感じます。
本堂は再建されて間も無く、近代的な造りになっていてやや趣に欠けますが境内の提灯は色鮮やかでとても綺麗です。
境内は狭いのですが、大須商店街自体は広く、一日楽しむことができます。
向かいの万松寺ビルにはゲーマーズが、すぐ近くにはまんだらけがありサブカル好きなかたにもオススメです。



愛知県名古屋市中区大須3丁目29-12
052-262-0735
駐車場なし
出典:Wikipedia、亀岳林萬松寺ウェブサイト

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック